その日は、朝からとても天気が良かった。
  風が野花の香りを運んで来る季節で、舞美はリトルを誘って散歩に出ることにした。
  向かった先は近所の公園。
  花壇には赤い花が咲き乱れ、リトルは嬉しそうに駆けて行った。
「ママ、花っ! 花だよっ!」
「ええ、綺麗ね」
「あっ、ほら。虫がいるよ。いっぱい!」
  リトルは花よりも、虫に興味を持つことのほうが多かった。
  その理由が何故なのか、舞美は今までしっかりと考えたことはなかった。
「ママ、ほら見て見て。こんなにおっきい」
  リトルが摘まんでいたのは、少し大きめのテントウムシだった。
  そして、舞美の見ている前で、リトルは指先に力を入れた。
「あ……」
  思わず声が出た。
  一瞬、自分の目を疑った。
  大きく育っていたテントウムシは、リトルの指ですり潰されてしまっていた。
「あははっ、ぬるぬるしたのが出てきた。ほら、こんなにいっぱい出てきたよ」
「リ、リトル……」
「うわーっ、ねばーって糸引いてる。気持ちわるーい」
  テントウムシを殺したことに何の罪悪感も抱かず、リトルは指に付着した体液をこねるようにしながら遊んでいた。
「……………………」
  舞美は、鈍器で頭を叩かれたような衝撃を味わっていた。自分の育て方が、根本的に間違っていたことに気付かされた。
  胸の内にあった言いようのない恐怖の正体を、ようやく見つけられた気がしていた。
「リトル……あなた、虫が好きなのかと思ってたけど、それってどうして?」
「だって、虫は殺せるもん」
「殺せるから……好きなの?」
「うんっ、潰すとグチュグチュ〜ってして面白いよ」
  それが、リトルの本性だった。
  舞美との生活を通して、命の尊さを学んだわけではないのだ。
  舞美とのルールがあるから、人間は殺せなくなってしまった。
  しかし、それ以外の生物を殺すことは禁じられていない。
  だから、リトルは虫が好きだったのだ。殺す感触を味わえる相手だからこそ、花よりも虫が好きだったのだ。
  舞美が何故人を殺してはいけないというルールを設けたのか、それは全く理解していないらしかった。
「ママ、どうしたの?」
  舞美の様子がおかしいことに気付いたようで、リトルが不思議そうに首を傾げた。
  何故、表情が曇ったのか、本気で理解できないといった様子だった。
「これも……私のせいなの……?」
「ママ?」
「ルールなんてもので縛って、それで上手くいくなんて思って……」
「ママ、どうしたの?」
  ルールで縛ったところで、リトルはその意味を理解していなかった。
  何故、人を殺してはいけないのか。
  命を奪うというのは、いったいどういう事なのか。
  母娘の関係を盾にして、ルールと言う名の制約をつけたところで、リトルには何の教育にもなっていなかったのだ。
「そうじゃない。ルールを決めただけで、何も教えてあげてなかった。母親になることから逃げてた。あなたのこと、本気で考えることから逃げてたのかもしれない」
「ママ……どうしたの? リトル、何かいけないことしたの?」
「ごめんなさい、リトル」
「ママ? なんで? なんで謝るの?」
  舞美が悲しそうにしているのを見て、リトルも悲しげな表情を浮かべた。自分のやったことの意味が、理解できていないことの証明だった。
  そして、そんな顔をさせた原因の一端は、間違いなく舞美にあるのだった。
「リトル、私は今まで、ちゃんとあなたと向き合ってなかった。母親になるなんて言っておきながら、あなたのことをちゃんと見てあげてなかった」
「ママ?」
「でも、それじゃあだめなのよね。そんな接し方をしてたら、あなたは何も学べない。子供でもわかる善悪だって、私は教えてあげてなかった。ルールで縛って、自分が見たくないことが起きないようにしてただけだった」
「リトル、ママの言ってること、よくわかんないよ。もしかして、リトルまたいけないことしちゃったの?」
「そうね。命を奪ってしまったわね。それは、いけないことなのよ」
「なんで? 虫だよ? 人間じゃないよ?」
「それは……………………」
  説明しようとして、舞美は口を噤んだ。どう説明すれば理解してもらえるのか、それがわからなかった。
  命の尊さ。それを伝えるには、果たしてどうすればいいのか。
  リトルに学ばせるより先に、自分が学ぶべきことが多くあるように思えた。
「リトル、家に帰ったら、ママと一緒にお勉強しましょう」
「勉強? 今日の分、もうやったよ」
「それとは別の勉強。ママも一緒にお勉強しないといけないことなの」
「ママも一緒に?」
「きっと簡単じゃないわよ。ううん、とても難しいことだと思う」
「難しいの……リトルにわかるかな?」
「ママと一緒にやっていきましょう。リトルがわかるように、ママも頑張るから」
「うんっ、ママと一緒なら勉強する!」
  リトルの顔に笑みが戻る。
  基本的に勉強は嫌いなのだが、舞美と一緒という表現が、リトルをやる気にさせたようだった。
  果たして、命の尊さを伝えることができるのか。
  何故、殺してはいけないのかを、理解してもらえるのか。
  不安は尽きなかったが、もう逃げるわけにはいかなかった。ごっこなどと言う半端なことはせず、本気でリトルと向き合おうと心に決めた。

  舞美が、本当の意味での、リトルの母親になった瞬間だった……。