「ねぇ、マリー」
  微かに舞美の声が聞こえて、マリーは目を覚ました。
  正確には起きてはいたのだが、意識はやや遠いところに飛んでしまっていた。
「怖くはない?」
  舞美の問いかけに、頭がはっきりとしてくる。
  視界には、涙を浮かべた舞美の顔があった。
「怖くはないわ。だって、ここに至るまでの人生……とても幸せだったもの」
  口元に笑みを浮かべて、マリーは答えた。
  偽りのない素直な答えだった。
「マリー……」
「こうして、一緒に過ごすことができた。それだけで、私の人生は満たされていたわ」
  思い残すことはない。
  自分の人生がこれほど豊かになったのは、全て舞美のおかげだった。
  かつては、舞美の大切な存在を奪い、舞美自身の体も傷付けた自分を、娘として受け入れてくれたからこそだった。
  そんな人生を歩めたことは、何よりも幸せなことだと感じていた。
「私は……怖い……」
  舞美が、マリーの胸に顔を押し付けてくる。
  震えた声は、彼女の悲しみの深さを表していた。
「マリーがいなくなったら、私……どうしたらいいか……」
「泣かないで。あなたの人生は、まだまだ長く続くのだから」
「続きたく、ない。死ねるのなら……マリーと一緒に死にたい」
「まあ、そんなことを言って……」
  マリーにとっては嬉しくもあり、悲しくもある言葉だった。
  舞美に想われているのがわかるからこそ、自分だけ先に逝くことが申し訳なかった。
「ねぇ、舞美。私はあなたに感謝しているの。だって、私はあなたに救われたんだもの」
「私は……何も……。それどころか、私は、マリーを…………」
「あなたは私に多くのことをしてくれた。たくさんの幸せをくれた。でもね、今にして思うと、これは奇跡だったのではないかと思うのよ」
「奇跡?」
「たとえば、そう……いくつもの道があって、それはどれも違う場所へと続いていて……その中のひとつだけが、今の私達の関係だったのかもしれないと……そんなふうに思うの」
  今ならわかる。
  かつて、ゾワボと対立していた頃、自分が漠然と感じていたものが、今ならはっきりと理解できた。
  これはきっと、星の数ほど繰り返される物語の一幕でしかないのだと……。
「マリー……」
  舞美がかすれた声で名前を呼んでくれた。
  大切な名前だった。
「ねぇ、マリー。私達が初めて出会ったときのこと、覚えてる?」
「もちろんよ。ふふっ、あのときは伝えたいことが伝わらなくて大変だったわ」
「ごめんなさい」
「あなたのせいじゃないわよ」
  かつて、舞美に受け入れてもらえなかったのは、自分の接し方が悪かったせいだと、今なら思うことができる。
  過去、自分の犯した罪の数々を、マリーは今でも忘れたことはない。
  しかし、舞美が娘として受け入れてくれなければ、きっとそんな事実にさえ気づくことはできなかった。
  人の心を教えてくれたことを、マリーは心から感謝していた。
「ああ……」
  腕を伸ばして舞美の頭を優しく撫でながら、マリーは思考を澱ませた。
  目の前には桜の樹があって、風に花びらが舞い散っていた。
  夢か、それとも幻か。
  どちらにしても、マリーの目にはとても美しく感じられた。
「いつだったか……いつだったか、こんなふうに慰めてもらったことがあったわね」
「マリー?」
「私が泣いて……あなたが優しく頭を撫でてくれて……」
「そう、だっけ?」
「ふふっ、もうずっと前の話よ。でも、私は幸せだった。あのとき、本当の意味で、あなたに受け入れてもらえたと感じることができたんだもの」
  懐かしい記憶が甦ってくる。
  舞美に、娘として認めてもらえた日。あのときの喜びを、マリーは一度として忘れたことはない。
  あの瞬間から、マリーの運命が変わったと言っても過言ではなかった。