「あら、お客様かしら?」
「え……?」
ふと見ると、部屋の隅に誰かが立っていた。
どこかで見たことがあるような女性が、とても優しい笑みを浮かべていた。
「なんだか……懐かしいわね」
「誰か……いるの?」
「ああ、誰だったかしら……とても懐かしいのだけど……」
「どんな、人?」
「綺麗な……ドレス、かしら? そういう服を着ているわ」
「ドレス……たとえば、お姫様みたいな?」
「ああ、そうね……どこかの国のお姫様みたいだわ」
部屋の隅にいる女性が、何かを喋っている気がした。
声は聞こえないが、「ありがとう」と口を動かしているように見えた。
まるで、その女性も舞美のことを見守っているかのように……。
舞美のそばに在り続けたマリーに、お礼を伝えに来たかのように……。
「マリー……しっかりして……。私を置いてかないで……私を……独りにしないで……」
舞美の悲痛な声に、マリーは意識を引き戻された。
もう、部屋に隅にいた女性は見えない。
代わりに、泣きじゃくる寸前の舞美の姿が視界に入ってきた。
「舞美……」
「お願いだから……独りに、しないで……」
「大丈夫……大丈夫よ……」
舞美に言い聞かせながら、その体を撫でる。
自分の腕は枯れ枝のように痩せ細ってしまっていて、それがなんだか妙におかしく思えてしまった。
「なんだか、色々なことを思い出して来たわ。初めて出会ったときのこと、お互いを理解し合うのに苦労したときのこと、とても長い間喧嘩をしていたときのこと、そして……初めて心が通じ合ったときのこと……」
懐かしい想い出が甦ってきた。
どれも大切な瞬間で、かけがえのないものばかりだった。
その一つ一つか胸にしまってあるからこそ、マリーは死が近づいて来ていても、落ち着いていられるのだった。
「マリー……」
覚悟ができていないのは、舞美のほうだった。
マリーの死期を悟り、溢れる涙が止まらなくなっていた。
「ふふっ、昔のあなたはもっと強い人のように感じていたけど、今は子供みたいね」
舞美の頬をくすぐるように指を動かしながら、マリーが優しい笑みを浮かべる。
「私の死を心から悲しんでくれることは、とても嬉しく思うわ。でもね、私が死んだあと、辛い思いをしながら生きてほしくはないの。だから、約束してちょうだい」
「約束?」
「私が死んだあとも、幸せになると……どこまでも強く生き抜いていくと……」
「そんなこと……」
「あなたならできるわ。だって、ずっと見てきたんだもの。あなたの強いところも、弱いところも、優しいところも、怖いところも、私全部見てきたんだもの」
「マリー……」
「今までと同じように、それから先も強く生き抜いていけると、私は信じているわ」
そこまで話をして、マリーは手を下ろした。
胸の奥から吐息が漏れて、大きな疲労を感じた。
「これから先も生き抜いて。それ以上のことを、私は望まないわ」
「……うん」
「少し眠るわ。起きたら、また色々なことを話しましょう」
「ん、わかった。おやすみ、マリー」
「おやすみなさい、舞美」
そうして、マリーはまぶたを閉じた。
心は穏やかで、何も聞こえない静かな時が流れていた。
こうして『今回の』人生は終わる。
理屈ではなく、死を前にした今、自分の存在の意味が理解できた。
「この幸せな人生のことを、きっと『次』の私は覚えていないのでしょうね」
まぶたを閉じたまま、マリーは静かな声でつぶやいた。
叶うなら、リトルに伝えてやりたい。
そのやり方ではだめだと教えてやりたい。
あるいは、舞美のことを想うのであれば、敵対しているゾワボこそが……。
「ごめんなさい。きっと、これからも私は、あなたを苦しめ続けるのね。次も、その次も、あなたのことを想い続けるからこそ……」
自分が喋っているのか、それとも心の中で思っているだけなのか、それさえもわからないままに、マリーは祈り始めた。
命が尽きようとしている自分にできる唯一のことは、舞美のために祈ることくらいだった。
「どうか……いつか……舞美がこの運命の輪から解放されますように……」
今ならわかる。
舞美の『解放』を妨害したのは、他ならぬ自分自身なのだと。
真の意味で舞美を助けようとしていた存在に、自分は敵意を向けてしまっていたのだと。
何故なら、それこそがマリーの役目だったのだから……。
「彼を討ったとき、私の役目は終わっていたのね」
役目が終わったからこそ、マリーは解放された。解放されたからこそ、死が許された。
次はない。
役目を終えたマリーが死んだとき、もう復活する必要はない。
何故なら舞美の未来は、もう決定されてしまったのだから……。
あまりにも皮肉な話。
舞美の救いを断ち切ったからこそ、マリーは今の幸せを得ることができた。
死が許されたからこそ、体と心がそれに向かって成長することができた。
リトルから解放されて、マリーになることができた。
だからこそわかる。
この幸せは、もう二度と望んではいけないものだと……。
この幸せを望むということは、舞美の遠い未来の不幸を望むことと同義であると……。
「マリー……マリー……」
「ああ……」
舞美の声が聞こえて、マリーはうっすらとまぶたを開けた。
真っ白な光の中に、舞美の姿が見えた。
現実なのか、それとも夢なのか、マリーにはもう判断ができなかった。
「マリー、どうして泣いてるの?」
「舞美……ママ……」
「悲しい夢でも見たの?」
鈍った思考で、マリーは舞美に伝えるべき言葉を探した。
おそらくは、これが最後。
もう一度会話ができたのは、もしかすると奇跡なのかもしれない。
だからこそ、最後に舞美に伝える言葉があるとすれば……。
「また……」
「えっ?」
「また……一緒に、暮らしたいな……」
そうして、今度こそ、マリーは二度と目覚めない眠りに就いた。
最期の瞬間まで舞美のことを想いながら、その生涯に幕を下ろした……。
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