第4話 2/4P

「ここが新しいおうちなの?」
「そうよ」
「狭くなっちゃったね」
  リトルの母親になると約束してから、舞美はすぐに日本を脱出した。リトルの引き起こした事件が大きすぎたため、あのままでは日本のどこにいても見つかってしまうと考えたからだ。
  脱出には幾つかの飛行機を乗り継ぎ、できるだけ追跡ができないように努めた。
「いい、リトル? 今日からこのアパートが私達の部屋なの。私達はここで暮らすの」
「ん、わかった」
「絶対に人に迷惑をかけるようなことしちゃだめよ?」
「うん、リトル、ママの言うことちゃんと聞くよ」
  舞美が母親になると決めてから、リトルはとても素直だった。
  人を殺さなくなった。
  傷付けることもしなくなった。
  物を盗むこともなくなった。
  一人で勝手な行動を取ることもなく、舞美の言うことは何でも聞くようになった。
  何かを学ぶことにも楽しみを覚え始めたようで、最近は食事の支度の手伝いまでするようになっていた。
「ママ、お皿並べたよ」
「ありがとう。もうすぐできるからね」
「えへへっ、楽しみだなぁ」
「……………………」
  リトルと暮らし始めて一ヶ月もすると、舞美の胸に不思議な感情が芽生え始めた。ただの母娘ごっこが、楽しいと感じるようになっていた。
「あっ、ミルク出しておくね」
  リトルは成長していく。舞美の教えたことを吸収して、普通の人間の女の子のようになっていく。
  昨日よりも今日。
  今日よりも明日。
  日増しに変化を見せていくリトルに、舞美はいつしか喜びを感じるようになっていた。
「結局は、私のせいだったのかしら……」
  時折、遠い記憶を甦らせた。
  まだ追手から逃げていた時代。
  マリーと一緒に、草原で暮らしていた頃。
  最初にリトルと出会ったときに、もっとよく話を聞いてやれば、案外三人で仲良く暮らせたのではないかと、そんなふうに思ってしまっていた。
  もっとも、それを実行することはマリーの命を危険にさらすも同然だったため、あの頃の舞美はその選択ができなかったのだが……。
「何が正しいかなんて、結局誰にもわからないのよね」
  自分の選択が間違っていたとは思わない。しかし、正しかったとも言い切れない。
  ただ、あの頃の舞美には、マリーを危険にさらしてまで、リトルを迎え入れる必要がなかったため、結果として拒絶する以外の方法がなかったのだ。
「今だって……」
  リトルとの生活を楽しいと感じ始めてはいるが、その一方で疑う気持ちが消えたわけではない。
  自分のいないところでルールを破っているのではないかと、常にそんな不安にとらわれていた。
  人を殺さないリトル。それが想像できない。
数百年間、抱いてきたイメージがあまりにも強すぎるため、いつか裏切られるのではないかと、そんなふうに考えてしまうのだった。
「ゾワボ、あなたならどうしたかしら? 今のリトルの姿を見ても、彼女は危険だと言ったのかしら?」
  ゾワボのことを思うと胸が痛んだ。彼に対する裏切りなのではないかと、自分を責めてしまうことが増えていた。
  もしかすると、全ては自分の弱さが招いたことなのかもしれない。
  自分がもっとしっかりしていれば、ゾワボは死なずに済んだのかもしれない。
  リトルの母親になると決めてから、舞美の胸には罪悪感が漂っていた。
  日々を楽しく感じるからこそ、胸の奥には悲しみが溜まっていった……。

  外出は常にリトルと一緒だった。買い物に行くときも、ちょっとした散歩のときも、リトルは舞美の隣を歩きたがった。
「ママ、これ欲しい」
  買い物に出ると、リトルは決まってお菓子を欲しがった。
「お菓子はこの前買ったのがあるでしょう」
「でも、これ新しいやつだもん」
「だめ。あなた、お菓子食べ過ぎなんだから、しばらくは禁止」
「えーっ!」
  リトルがぷぅっと頬を膨らませる。
  実際のところ、お菓子を買うくらいの余裕はあるのだが、リトルが我儘にならないように、舞美なりに躾けていた。
「……こういう感じでいいのかしら?」
  数百年を生きた舞美だが、子育てという経験は初めてだ。どう接していけば正しい教育になるのか、毎日が試行錯誤だった。
「ねぇ、ママ。ちゃんと勉強もするからぁ」
「勉強するのは当たり前でしょう」
「でもぉ……」
「また今度」
「うーっ」
「ほら、こっち来なさい」
  お菓子のコーナーに残ろうとするリトルを、舞美が強引に引っ張って行く。
  リトルは視線こそお菓子の棚に向けていたが、抵抗らしい抵抗はしなかった。
「ちゃんと勉強したら、お菓子買ってくれる?」
  お菓子に対する未練は、帰宅するまで続いていた……。

  一般常識の習得の他に、リトルは小学生レベルからの勉強を学び始めていた。
  何百年と生きてきても、まともな教養を受けたことがないのだ。舞美の学力にも限界はあるが、教えられる範囲で教育を施していた。
「ママ、これわかんない」
「どれ?」
「ここの問題」
  リトルの勉強の仕方は、比較的真面目だった。わからない問題は素直に聞き、難しい問題が解けると笑顔で喜んだ。
「この問題は……こう?」
「ええ、それでいいわ」
「やったー!」
  狭いアパートでの二人暮らしは、舞美が想像していた以上に楽しかった。
  母娘ごっこのつもりが、いつの間にか本気でリトルのことを考えるようになっていた。
  独りが寂しかったという理由はある。
  リトルでもいいから、意識を向ける相手が欲しかったというのは紛れもない事実だ。
  あれほど拒んだ相手に都合の良い考え方だと思わなくもなかったが、お互いに喜べるのならそれで良かった。
「あっ、もうこんな時間なのね。そろそろご飯にするから待っててね」
「うんっ」
  舞美がリビングへと移動して、冷蔵庫から野菜を取り出す。
  チャイムが鳴ったのは、包丁を握ってキャベツを切ろうとしたときのことだった。
「はーい」
  玄関に出て、誰が来たのかを確認する。
  相手は近所に住む老婆で、旅行帰りの土産を持って来てくれた。
「どうもありがとう」
  舞美は、しばらく玄関先で老婆と話をした。今の時代、追手もいないため、人との接触もそれほど警戒する必要はない。老婆の旅行話を聞いたあと、舞美は玄関を閉めた。
  リトルの声が聞こえたのは、その直後だった。
「あいたっ」
「リトル? どうかしたの?」
  玄関からリビング、リビングからキッチンへ。
  脚を踏み入れた瞬間、舞美の心臓は大きく跳ねた。
「リトル!」
「あ、あう、ごめんなさい」
  リトルが気まずそうな表情を浮かべる。キッチンは大量の血で汚れ、半分ほど切られたキャベツが真っ赤に染まっていた。
「き、切ろうとしたんだけど、手が滑っちゃって……あ、洗ったら、食べられるかな?」
「そんなのいいからっ!」
「え……?」
「どこ? 手を切ったの?」
「うん、ここ……」
「ほら、水で洗って。傷薬は、確か……」
「ママほどじゃないけど、こんなのほっとけば治るよ」
「そういう問題じゃないでしょう!」
  冷静さを保つのは難しかった。
  リトルが怪我をしたことに、舞美自身が驚くほど動揺してしまっていた。
  それは、紛れもなく母親の姿。
  慌てながらもリトルに治療を施して、舞美はホッと吐息を漏らした。
「だめよ。勝手に包丁なんか持っちゃ」
「ごめんなさい」
「手伝おうとしてくれるのは嬉しいけど、危ないことは禁止。ずっと前にママと約束したでしょう?」
「うん」
「……なにニヤニヤしてるのよ」
  怪我をしたというのに、リトルは不思議なほど顔をにやつかせていた。
「だって、ママが心配してくれたんだもん」
「そりゃあ……するでしょう」
  口ではそう言ったものの、舞美自身も驚く反応だった。リトルが普通の人間ではないとわかっていて尚、怪我を心配してしまった。
  自分が本当の母親になりつつあることを、認めるしかなかった。
  だが、このままでいいのか。
  本当に今の生活を続けていていいのかという疑問が付きまとう。
  日常を楽しいと感じれば感じるほど、舞美の中で警戒心は高まっていった。裏切られたくないという気持ちが強まるほど、恐怖が大きくなっていった。
  自分達が偽りの母娘であることを、忘れないようにと務めた……。

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