始まりは、絶対的な存在たる王のいる世界。
舞美は一切の記憶を失い、そこで奴隷として過ごしていた。もう名前も忘れてしまった人物――長い触手を伸ばす怪物のもとで、奴隷としてこき使われていた。
辛かったという記憶はない。あまりに昔のことで、奴隷として暮らしていた事実を覚えているだけだ。自分がどんな目に遭ったかはほとんど思い出せないし、思い出そうとも思わない。
ただ、幸運にもその生活から抜け出すことができたあとは、幸せな時間を過ごすことができた。ギュスターヴという存在に護られながら、しばらくの平穏を得ることができた。
「マリー……」
舞美がかすれた声でその名を呼んだ。
とても大切な名前だった。
「ねぇ、マリー。私達が初めて出会ったときのこと、覚えてる?」
「もちろんよ。ふふっ、あのときは伝えたいことが伝わらなくて大変だったわ」
「ごめんなさい」
「あなたのせいじゃないわよ」
マリーの手が伸びてきて、舞美の頭を優しく撫でた。
この優しい手に何度救われたことか。どれほど支えられてきたことか。その一つ一つを思い出すたびに、舞美はこの温もりを失うことを恐れた。
「まだ……咲いてるかしら?」
不意にマリーがつぶやく。
何の話なのかすぐにはわからず、舞美は首を傾げた。果たして、今のは自分に向けられた言葉なのか、それとも単なる独り言か。
どちらにしても、気になる言葉ではあった。
「花の話?」
「ええ、桜のこと。去年まで公園に咲いていたでしょう?」
「ああ……そうね。色々とばたついて、今年は見に行けなかったけど」
「きっと綺麗でしょうねぇ」
「……………………」
マリーの話を聞きながら、舞美は悲しげに表情を曇らせた。
去年、マリーは公園には行っていない。桜の花を見たがってはいたが、その頃すでに足腰が弱っていたため断念したのだ。
公園で桜を見たのは、果たして何年前だったか……。
マリーの介護をしながら、舞美は幾度となく恐怖に襲われていた。体力や記憶力が衰えている瞬間を目の当たりにするたびに、自分がいずれ置いて行かれてしまうことを突き付けられている気分になった。
行かないでほしい。
ずっとそばにいてほしい。
何度もその願いを胸に抱き、夢に見て泣き続けた。
「来年、また見に行きましょう」
マリーの手を掴みながら、舞美はそれだけ言うのが精一杯だった。多く言葉を出していると、涙が溢れてしまいそうだった。
「そうね。来年行けるといいわねぇ」
「行きましょう。必ず……絶対……一緒に行きましょう」
「ええ、私も……舞美と一緒に行きたいわ」
「マリー……」
「ふふっ、でも……」
「えっ?」
マリーの手が舞美の顔に触れて、目元の涙を拭ってくれる。
「最近のあなたは、泣いてばかりね」
「あ……ごめんなさい」
「あなたは本当に優しい人だから、私の死を本当に悲しんでくれるんでしょうね」
「そんなの……当たり前じゃない」
「ありがとう。あなたにそう言ってもらえて、私は本当に幸せだわ。色々なことがあったけど、想いが通じ合っていたと胸を張ることができるから、こうして死を迎える瞬間になっても、私なにも怖くないのよ」
「お願いだから……死ぬなんて……言わないで……」
マリーの体に抱き付いて、舞美が涙を流し始める。抑えていたものが溢れ出して、自分でもどうすることもできなかった。
何故、生あるものには死が来るのか。
何故、自分にだけ死が来ないのか。
願わくば死を迎えたい。マリーとともに、同じ死を共有したい。この数年、それを願わないことはなかった。
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