第1話 3/4P

 二人で多くの場所を巡った。
  人ではない存在だからこそ、同じ場所には留まれなかった。数年ごとに住む場所を変えて、ひっそりと生きてきた。
  丘の上の屋敷。
  小さなアパート。
  田舎の古風な家。
  どの場所でもたくさんの思い出を作ることができた。マリーがそばにいてくれれば、寂しいと感じることはなかった。
「いつだったか……」
  ぽつりとこぼすように、マリーが口を開いた。
「いつだったか、こんなふうに慰めてもらったことがあったわね」
「マリー?」
「私が泣いて……あなたが優しく頭を撫でてくれて……」
「そう、だっけ?」
「ふふっ、もうずっと前の話よ。でも、私は幸せだった。あのとき、本当の意味で、あなたに受け入れてもらえたと感じることができたんだもの」
  思い出に馳せながら、マリーの顔はとても幸せそうだった。まるで、目の前に映像が浮かんでいるかのように、宙の一点をじっと見つめていた。
  死を前にした感情。
  それは、不老不死の肉体を持つ舞美には、永遠にわからないものだった。どんなに手を伸ばしても届かない、尊い瞬間に感じられていた。
  だが、それでも別れは辛い。数百年を共に過ごした相手に去られるのは、耐え難い悲しみを抱かせた。
  かつては多くの別れを経験してきたはずなのに、舞美はいまだにマリーの死を迎え入れるだけの準備ができていなかった。
「死なないで……」
  それだけが、舞美の口から出た精一杯の言葉だった。
  耳の遠くなったマリーには聞こえなかったかもしれない声で、叶うはずのない願いにしがみつこうとしていた。
「あら、お客様かしら?」
「え……?」
  不意のマリーの言葉に、舞美は思わず顔を上げた。
  視線の方向に振り返ってみるが、そこには誰もいない。二人暮らしなのだから当然だ。今、この場所に、舞美とマリー以外の人物がいるはずがなかった。
「なんだか……懐かしいわね」
  マリーはしみじみとした様子でつぶやいた。舞美には見えていなくとも、部屋の隅に誰かの姿を映しているらしかった。
「誰か……いるの?」
「ああ、誰だったかしら……とても懐かしいのだけど……」
「どんな、人?」
「綺麗な……ドレス、かしら? そういう服を着ているわ」
「ドレス……たとえば、お姫様みたいな?」
「ああ、そうね……どこかの国のお姫様みたいだわ」
  マリーが誰の姿を見ているのかはわからない。知った相手なのか、それともテレビで見た女優か誰かを思い出しているだけなのか。
  どちらにしても、舞美に見えないものを見ているという事実が怖かった。
「マリー……しっかりして……。私を置いてかないで……私を……独りにしないで……」
「舞美……」
「お願いだから……独りに、しないで……」
「大丈夫……大丈夫よ……」
  ぼんやりとしていた意識を取り戻したのか、マリーの視線が舞美のほうに向けられる。
  骨の浮いたような手で髪に触れると、しばらく舞美を安心させるように撫で続けた。
「なんだか、色々なことを思い出して来たわ。初めて出会ったときのこと、お互いを理解し合うのに苦労したときのこと、とても長い間喧嘩をしていたときのこと、そして……初めて心が通じ合ったときのこと……」
  マリーが昔を懐かしむようにつぶやく。
  舞美は涙で頬を濡らしながら、やはり同じように今までの人生を思い返していた。

 幸せというものを初めて教えてくれたのは、古城に住む吸血鬼・ギュスターヴだった。
  当時、記憶を失い自分の名前さえわからなかった舞美に、その地方の言葉で雪を意味するネージュという名前を与えてくれた。
  本当に幸せだった。多くの姫達とともに、何の不安もない日々を送ることができた。それまで、奴隷として過ごしてきた舞美にとっては、夢のような世界だった。
  マリーは、その城で最初に出会った姫だった。満足に喋ることさえできない舞美に、彼女は一つ一つ言葉を教えてくれた。城での生活の仕方を学ばせてくれた。
  ギュスターヴが命を落とし、彼の城を出ることになっても、マリーは舞美の旅について来てくれた。
  多くの国を渡り歩いた。当時の舞美には追手がかかっていたため、彼らから逃亡する生活を何百年と続けた。
  マリーを危険にさらしたことは一度や二度ではない。自分と一緒にいるからこそ危険が降りかかり、舞美は何度もそのことについて悩んだ。マリーと別れるべきではないのかと、自問自答を繰り返したこともあった。
「これが私の生きる道なのよ。それは、たとえネージュであっても邪魔はさせないわ」
  何百年経とうとも覚えている言葉。
  危険な旅にマリーを巻き込むのが苦しくなったとき、彼女から言われたことだった。
「貴女の旅について行くことは、私自身が決めたことなの。だから、貴女がいくら拒んでも、私は貴女から離れないわ。私を離したかったら、私より強くなってごらんなさい」
  当時は、まだ戦い方に関してはマリーのほうが上だった。追手から逃げる旅を続けながら、舞美は戦い方を学ばせてもらっていた。
  マリー以上の力を身につけるのにかかった時間は数十年。自分の力で敵を倒せるようになるまで、追手を退けてくれたのはマリーだった。
「焦らず強くなればいいのよ。時間はたっぷりあるんだから」
  全てを包み込むような性格は、舞美にとって親友であり、姉であり、母のようでもあった。
  マリーがいてくれたからこそ、舞美は自らの境遇を悲観せずに済んだのだ。
  それは、今、この瞬間であっても変わることはない……。

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