「ママ……起きて、ママ……」
自分を呼ぶ声が聞こえた気がして、舞美は意識を取り戻した。
正確には、自分が眠っていた、あるいは気を失っていたことを自覚した。
「うっ……」
「ママ、起きたの!?」
舞美を覗き込んでくるのは、心配そうな表情をしたリトル。
どうやら膝枕をされているようで、体が斜めになっているのが感じられた。
「ああ、良かった……ママ、死んじゃったかと思った」
「……死ぬわけないでしょ」
かすれた声で思わず返してしまう。頭がぼんやりとして、考えがまとまらなかった。
「ママ、何も食べないんだもん。こんなことしてたら、体が壊れちゃうよ」
「……………………」
「ねっ、これ飲んで。リトルの飲みかけだけど、このジュースおいしいよ」
そう言って、リトルが缶ジュースを舞美の口元で傾けてくる。
口を閉じれば飲むのを拒むことはできたはずだが、今の舞美にはその判断さえ難しかった。
口の中に少しだけ溜まった甘いジュースを、ゆっくりと喉の奥へと流し込んでいった。
「あ……飲んだ? ママ、今飲んだの?」
「……………………」
「も、もっといる? 喉、渇いてるよね?」
リトルが興奮気味に言いながら、もう一度ジュースを飲ませてくる。
舞美は大人しくそれを口に含むと、今度は大きく喉を鳴らして飲み込んだ。
「ん……ごほっ……ごほっ……」
「あ、ごめんなさい。量が多かった?」
「んぅっ……ん、んっ……」
「ど、どう? おいしい?」
「……ええ」
舞美が疲れたような声で答えた。
食事を断ってから早数ヶ月。久しぶりに口にした甘い味わいは、とても拒めるものではなかった。
拒むだけの体力も気力も、今の舞美の体からは失われていた。
「ご、ご飯……食べる?」
「……ええ」
「待ってて! すぐに持って来るから!!」
リトルが目を輝かせて部屋を飛び出していく。舞美の体が床に寝かせられて、視界にはぼやけた天井が見えていた。
泣きたい気分だったが、もう涙さえ出ないようだった。
「ママ、持って来たよ!」
部屋に戻って来たリトルが差し出したのは、キッチンの戸棚に入れていた食パンだった。丸ごと一斤持ってきたのは、全て舞美に食べさせるつもりのようだった。
「ママ、あーんして」
「……………………」
舞美は声を出さず口を開けた。
リトルはパンを適度な大きさにちぎって、それを舞美の口の中に入れた。
「んっ……」
数ヶ月振りの食事に、頬が痛むほど唾液が溢れ出した。パンを噛もうとしても顎に力が入らず、たった一切れを食べるのに数分の時間を要した。
塩気を強く感じた。美味しいとも不味いとも思わず、ただ塩辛いという感想だけが頭を占めた。
「うっ……んんっ……」
「ママ? これ、嫌い?」
「変な、味」
「た、食べられない?」
「これでいいわ。もう一口……ちょうだい」
「うんっ」
その後数回に渡って、舞美はリトルにパンを食べさせてもらった。久しぶりの食事に胃が満たされて、わずかながら体温が上がった気がした。
リトルに対する怒りが消えたわけではない。ただ、それ以上に疲れてしまっていた。
何も話さず、食事もとらず、ただ眠るだけの生活を続けていても、それでリトルが舞美のことを諦めるわけではない。いずれ体力的にも精神的にも限界が来るのは、ある意味予想がついていた事だった。
「ママ、やっと食べてくれた」
「……………………」
「リトル、本当に心配してたんだよ。ママの体が壊れちゃうんじゃないかって、すごく不安だったんだよ。だから……良かった」
舞美を膝枕しながら、リトルがホッとした様子でつぶやく。
その気持ちは、おそらく本物なのだろう。手足を切り取った相手のことを、リトルは本気で心配したのだろう。
それがわかるからこそ、舞美はリトルにおぞましい感情しか抱くことができなかった。
壊れて、狂ってしまっているのだと、そう思うことしかできなかった。
「ママ……」
小さく微笑みながら、リトルが舞美の頬をそっと撫でた。
「ママと一緒にいられるのを、ずっと待ってたんだよ。初めて会ったときから、ものすごく時間が経って、ずっとずっと我慢してきて、それでやっとリトルの番になったんだよ」
今まで何度も聞いた話を、リトルが繰り返した。手足が切り取られてからも、耳にこびり付くほどに聞かされた内容だった。
「ねぇ……どうしたら、リトルのママになってくれるの? どうしたら、リトルが娘だって認めてくれるの?」
「……………………」
「リトルも、ママに頭撫でてほしいよ」
話を聞くだけで、舞美の疲労感が溜まっていった。これ以上、余計なことを考えたくなかった。
数ヵ月間に及ぶ絶食生活は、舞美から一切の気力を失わせてしまっていた。
――どうでもいい。
それが、今の舞美の偽らざる本音だった。
「敵討ちしたって、意味はないのよね」
「えっ? ママ、なに……?」
「なんでもないわ」
これから自分がどうするべきか、舞美はぼんやりと考え続けた。何か希望があるわけではないが、あえて望むのであれば、これ以上リトルの話を聞きたくないということだけだ。
両手がなくては耳を塞ぐこともできない。
「いいわ。あなたのママになってあげる」
「え……?」
「ママになってあげるから、これ以上手足を切り取らないで」
「ホ、ホントに!?」
「顔のそばで叫ばないで」
「ホントにママになってくれるの!? リトルのこと、子供だって認めてくれるの!?」
「ええ、認めてあげる。だから、手足は元に戻して」
「あ、頭っ、頭撫でてくれる!?」
「……気が向いたらね」
「やったー!!」
まるで、玩具を買ってもらった子供のように、リトルが両手を上げて喜んだ。
舞美がどんなつもりで言ったのか、それは全く考えていないようだった。
「……うるさいわよ」
リトルには聞こえない声で、舞美がつぶやいた。
大切なものは何一つない。
敵討ちをするだけの気力もわかない。
これから先、自分がどうなるかなど、舞美は完全に興味を失ってしまっていた。
――生きるのではなく生き抜く。
数百年もの間、自分を支えてきた生き方を、この日舞美は手放した……。
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